恋の寿命

百年の恋も一時に冷めるという言葉がある。

私はこういう事例は実際存在するのかと疑問に思った。まず百年というのは比喩のようなものであるといえ、それほど長くひとりの相手に恋をすること、あるいは人を好きになってから同じ熱意のままでいられること自体がなかなか稀有なことなのではないかと個人的には感じるからだ。そしてさらにこの「百年の恋」が成立したとしたら、そんなにそれはどんな事情があれど一瞬で冷めてしまうことなどあるのだろうか。減点にこそなれど、情状酌量の余地はないのだろうか。

なかなかややこしい疑問なので、ここはまず「百年の恋」というものが仮にも存在するとしよう。こっちに関しては困難かもしれないが、必ずしも有り得ない事象だとは言えないだろう。

もしかしたら今後私にそのような人が現れるかもしれないと、希望的観測を含めつつ仮定してみよう。

そして次にその百年の恋が冷めることがあるのかということを問うてみる。こんな女だったら嫌だなぁというのを想像してみよう。私が嫌いなタイプの女は少なからずいる。

例えば一人称が自分の名前あるいはあだ名である女だ。

もし自分が好きでたまらない女子が一人称を自分の名前を用いたとしたらどうだろう。

確かには聞いた一瞬は顔をしかめたり、引くこともあるかもしれないが、この程度のことなら甘んじて受け入れられる気もする。私が好きな西野七瀬は乃木坂にいた時は自分のことを「なな」と呼んでいて、一瞬うわぁ…ってなったが、そこで彼女への想いが冷めることはなく、今でも彼女のことは普通に好きである。私が今一番好きだと言える女性である新垣結衣の一人称は「私」であるが、もし仮に「結衣」だったとしてもそれはそれでかわいいなーであっさり片付いてしまうように思える。よってこの程度では百年の恋を冷ますことはできない。

次に嫌いなタイプの女は、飲みの席での乾杯の瞬間を撮ってsnsにあげる女だ。これは別に女に限ったことではない気もするが、個人的には女の方がやってる割合は高い気がする。

こっちの方が嫌いさ度合いは前者よりはるかに上だ。先程の行為に関しては少しだけ「うわぁ」って思う程度だが、後者に関してはその瞬間が収められたインスタのストーリーを家で見てたら「きっしょ」と声に出して言いたくなるのに加え、もはや軽蔑の念すら覚えるレベルである。

もし仮に西野七瀬と2人きりであろうが、集団であろうが飲みにいくことができ、抑えきれない高揚感を胸に抱え、そしてついにのの乾杯の瞬間を迎えた時、あの七瀬がスマホ片手にジョッキを掲げていたらーーー

さすがの西野七瀬ですらその瞬間私の中ではその人物は西野七瀬ではなくただの女にまで格落ちしてしまうだろう。仮にこれがかの新垣結衣であったとしても、その行為を見なかったことにしつつも、これからはテレビやスマホの画面に映るガッキーだけを愛していこうという決意すら固めるかもしれない。

以上の点から、百年の恋も割と簡単に冷え切ってしまう危険性があるということがわかった。そしてそのことと同時に、百年の恋を育むことがいかに難しいかということを痛感した。恋という花が百年間咲き続けようとする中で、それを枯らそうとする天災は、思いがけずやってくる。そう感じた。私はこれから好きな人ができたら、その危機にも負けず百年の恋を実らせることはできるのだろうか。