体育祭のダンス

私は中学・高校の体育祭でやるダンスみたいなのが嫌いでした。(ただ声を出すだけの応援は別)

人前で振り付けをしたり踊ったりすることが、あまり運動が得意ではない冴えない私にとってはめちゃめちゃ恥ずかしかったからです。

だけどだからといって棒立ちでいるわけにはいかない。

かえって目立つし、それはそれで恥ずかしいことだし、何より周りの人々に迷惑をかけてしまう。

そこでせめてもの仁義として、迷惑をかけないように、かつ出来る限り恥ずかしくないように小さな振り付けで踊るわけです。

 

女👩「もうちょっとちゃんと踊って!」

 

こちらサイドとしては最低限の仁義でありながらも最大限の誠意を示しているのにも関わらず、その心意気を汲むことなくあっさりと片付けられるのでした。めでたしめでたし。

 

私は一応今社会人の端くれの中の端くれとして仕事をさせてもらってますが、できれば仕事などしたくありません。

ただ仕事を全くしないとなるとそれはそれで肩身も狭いし、会社の人ひいては家族等に迷惑をかけることになるでしょう。

そこでせめてもの仁義として、なるべく迷惑をかけないように、少なくとも体育祭のダンスよりは一生懸命仕事をします。

 

それでも上手く行かないこと、腹の立つことが少なからずあります。

 

不満はあるけど、こういうものなのでしょう。

でも悪いことばかりでもないのでしょう。

私はそう信じたい。

 

「目立ちたがり屋」

私はどちらかというと目立ちたがり屋だと思う。 

全くもって人から注目を受けられないというのは正直しんどい。できれば少人数であっても気にかけられたいと思う。

幼少期のころはさらにその気が顕著だった。

幼少期から小学校中期ごろまで目立ちそうな役職等には自ら立候補していた。

 

時にはあまりにも自分本位な時もあり、友達に不快な思いをさせることもあり、その時は私の母親(和美)に「俺が俺が」ばっかりだと周りの人から遠ざけられるという旨の忠告をされることも少なからずあった。私が幼稚園年長から小学校2年ごろの頃だったと思う。

そんな和美の教育もあり、私の「俺が俺が」は小学校高学年あたりから鳴りを潜めていくこととなり、現在に至る。

(現在全く自己本位ではないと思っているわけではなく、当時と比べるとの話であることを注記しておく。)

 

それでも未だ尚、まだ目立ちたいという思いは少なからずある。

ただしかし強いていうなら頭に「いい意味で」という言葉を付け加えたい。

 

SNSが普及した昨今では迷惑行為や炎上商法等悪目立ちをしているにも関わらず注目を集めることで収入を得る者、インフルエンサーという大層な呼ばれ方をされる者もいる。

 

私は悪目立ちをなるべくせずに、「いい意味で」目立つことにより少しの人たち、できればなるべく多くの人から気にかけてもらえるようになりたいと思う。

 

恋の寿命

百年の恋も一時に冷めるという言葉がある。

私はこういう事例は実際存在するのかと疑問に思った。まず百年というのは比喩のようなものであるといえ、それほど長くひとりの相手に恋をすること、あるいは人を好きになってから同じ熱意のままでいられること自体がなかなか稀有なことなのではないかと個人的には感じるからだ。そしてさらにこの「百年の恋」が成立したとしたら、そんなにそれはどんな事情があれど一瞬で冷めてしまうことなどあるのだろうか。減点にこそなれど、情状酌量の余地はないのだろうか。

なかなかややこしい疑問なので、ここはまず「百年の恋」というものが仮にも存在するとしよう。こっちに関しては困難かもしれないが、必ずしも有り得ない事象だとは言えないだろう。

もしかしたら今後私にそのような人が現れるかもしれないと、希望的観測を含めつつ仮定してみよう。

そして次にその百年の恋が冷めることがあるのかということを問うてみる。こんな女だったら嫌だなぁというのを想像してみよう。私が嫌いなタイプの女は少なからずいる。

例えば一人称が自分の名前あるいはあだ名である女だ。

もし自分が好きでたまらない女子が一人称を自分の名前を用いたとしたらどうだろう。

確かには聞いた一瞬は顔をしかめたり、引くこともあるかもしれないが、この程度のことなら甘んじて受け入れられる気もする。私が好きな西野七瀬は乃木坂にいた時は自分のことを「なな」と呼んでいて、一瞬うわぁ…ってなったが、そこで彼女への想いが冷めることはなく、今でも彼女のことは普通に好きである。私が今一番好きだと言える女性である新垣結衣の一人称は「私」であるが、もし仮に「結衣」だったとしてもそれはそれでかわいいなーであっさり片付いてしまうように思える。よってこの程度では百年の恋を冷ますことはできない。

次に嫌いなタイプの女は、飲みの席での乾杯の瞬間を撮ってsnsにあげる女だ。これは別に女に限ったことではない気もするが、個人的には女の方がやってる割合は高い気がする。

こっちの方が嫌いさ度合いは前者よりはるかに上だ。先程の行為に関しては少しだけ「うわぁ」って思う程度だが、後者に関してはその瞬間が収められたインスタのストーリーを家で見てたら「きっしょ」と声に出して言いたくなるのに加え、もはや軽蔑の念すら覚えるレベルである。

もし仮に西野七瀬と2人きりであろうが、集団であろうが飲みにいくことができ、抑えきれない高揚感を胸に抱え、そしてついにのの乾杯の瞬間を迎えた時、あの七瀬がスマホ片手にジョッキを掲げていたらーーー

さすがの西野七瀬ですらその瞬間私の中ではその人物は西野七瀬ではなくただの女にまで格落ちしてしまうだろう。仮にこれがかの新垣結衣であったとしても、その行為を見なかったことにしつつも、これからはテレビやスマホの画面に映るガッキーだけを愛していこうという決意すら固めるかもしれない。

以上の点から、百年の恋も割と簡単に冷え切ってしまう危険性があるということがわかった。そしてそのことと同時に、百年の恋を育むことがいかに難しいかということを痛感した。恋という花が百年間咲き続けようとする中で、それを枯らそうとする天災は、思いがけずやってくる。そう感じた。私はこれから好きな人ができたら、その危機にも負けず百年の恋を実らせることはできるのだろうか。

罪のないものだけが…

最近また夜にマック行って作業というか勉強をすることが多くなった。マックというのは存外勉強する場としてはちょうどいいものである。図書館とかだと静かすぎて逆に集中できないのだが、マックは適度な雑音があり、集中するのに適している。自分の部屋だとやる気が出ないけど、リビングだと勉強が捗るのと同じ理論だと思う。

だけど時々そういった理想の勉強環境に、問題が起こる時もある。

夜11時ごろになると時々総勢8〜10人ほどの兄ちゃんたちがやってきて、やたら大きい声で話しまくる、なんてことがある。その時はもう集中して勉強するのは諦めざるを得ない。

何が厄介なのかというと、こいつらは8〜10人っていう人数の多さの問題でうるさいというわけではないことだ。いやもちろんそれもうるさい原因なのだけど、深夜のマックに8〜10人で来るような元気な奴らは、まず一人一人が声がメチャクチャ大きいのだ。ただ普通に話してる声が常人の2.3倍はある。ただの普通のなんてことない会話なのに。それだけならギリまだしも、そいつらの笑い声はさらにとんでもなく大きい、そして汚い。下品。おまけにそういう奴らは見た目も金髪でチャラチャラした格好をして視覚的にもうるさい。ホントにうんざりする。

こういう奴らが来ると私は思わず顔をしかめ、「なんて迷惑な奴らだ。なんか痛い思いでもすればいいのに」なんて思ってしまう。ついつい文句を言いたくなったり、憎悪の念を向けてしまうのである。

しかし程度の差こそあれど、店からしたら私も「迷惑な奴ら」なのだろう。

ただ150円のホットコーヒーを買っただけで短くとも1時間、長いときには2時間3時間と四人分の席を使い勉強という名を借りた居座りを来る日も来る日も行っているのだ。

8〜10人ほどで来る奴らは、いる時はそれはもううるさいのだが、ほとんどの場合は私よりも遅く店にやってきて、私よりも早く店を出る。私と8〜10人ほどで来る奴らの両者が等しく「迷惑な客」だとするならば、私の方が遥かに迷惑をかけている時間は長いのである。

ともすれば私はうるさい奴らに対して、憎悪の念を向けるべきではない。私もマックに迷惑をかけているうっとおしい客なのだから。

憎悪の念、軽蔑の念を持ち、文句を言っていいのはただ純粋にマックにハンバーガーやポテトを食べに来ている、罪のない客だけである。

150円のコーヒーの私に石を投げる資格はない。

私も石を投げられる側の、「罪の女」の1人なのである。

みんなも何か嫌なことがあって、その人を攻撃したり、憎悪の念を向けたくなったりしても、まず石を投げる前に自分に罪がないのか問うてみよう。自分に石を投げる資格があるのかと。

そうすれば自ずと憎悪も消えて、他者への愛を忘れずにいられるだろう。

他の誰よりも私自身が実践しなければいけないことですね。

アジカン

 俺は高校までバンド単位で聴くと言えるレベルのバンドはMr.ChildrenBUMP OF CHICKENくらいしかなかった。そんな状況と比べればいろいろなアーティストを聴くようになってきたが、その中でも特にハマった(まだミスチル バンプほど聴けてはいないけど)バンドはasian kung-fu generationだ。アジカンは高校の時にもリライトを聴いて手を出そうとしたのだが、どうもリライトは自分にとってハマらずそのまま聴かずじまいだった。ところが大学に入ってオンクラが入部すると先輩に「アジカンは必修科目だぞ」などと言われ、(ちなみに俺はこの「○○(バンド名)は必修科目」などという類のフレーズは大嫌いである。この場ではアジカンが例なため自分にとってはマシだが、集団の嗜好で個人の好みを決められる筋合いなどないし、何より今年の新入生に対して「バックナンバーあいみょんボカロは必修科目だぞ」などと言ってる輩がいようものなら心底うんざりするからである。)実際今よりもアジカンをやる先輩も多かった。まぁだからと言ってしばらくは聞かなかったのだが、サマコンで当時まだ比較的喋る方だった(?)関○智也という男がソラニンをやってるのをみて「この曲はいいな」と素直に思いこれがアジカンを聴く一つのきっかけになったのである。それからもざ○きーの影響を受けつつも徐々にアジカンの楽曲に触れ、今では自分の一番オンクラでやりたいバンドの一つにまでなった。だからアジカンを聴くようになり、好きなバンドになったことに関しては年収450万さんには感謝の意、そして俺が出会ってまだちょっとの頃の彼のカレーキャラは今はどうなってしまったのだろうという疑問を投げかけたい。あいつ近頃カレー食ってんのかな。もはやどっちかというと混ぜ麺キャラだよな。

 

 

P.S このブログを書くにつれて、1年の新歓期のバーベキューで初めてざっきーと会ってからなかなかざっきーの名前を覚えられずになぜかLINEの名前をともやで登録してたのを思い出しました。1年の時って今じゃちょっと考えられないことがいろいろあったよなぁ。1年の時は関根とかりんたろうが俺の家まで遊びに来たことが2回くらいあったし、学校行く途中でまだ知り合って間もない岡部に会ってなんか気まずくて話もそこそこなままチャリで突っ切ったこととかそもそもかずまとかよしきは怖くてあんまり話しかけられなかったこととか。なんもない夜にふと過去を振り返ってみるとなんかいいっすよ。マジで。

「櫻井翔」が1番カッコいい名前

 皆さん自分の名前は好きでしょうか。

 僕の名前は「優貴」なんですけど、かなり気に入ってるんですよね。親が「優しく命の貴さ(とうとさ)がわかるような子になって欲しい」っていう願いを込めて決めた名前らしい。実に良い由来だと思う。我が親ながらあっぱれだ。実際のところ俺は優しくもなければ軽率に「死ね」とか言ってるけどね。そこら辺は親に申し訳ないと思ってる。特に直すつもりも今のところないけれども。今まで名前で呼ばれることがほぼなかったけど、最近結構周りが呼んでくれるようになりましたね。まんざらでもないんすよこれが。どうもです。

 その反面、「平澤」っていう苗字はあんまり好きじゃないんですよね。あんまりカッコのいい響きじゃないし、いうほど周りにいないのに没個性感あるのがちょっとムカつく。名前は変えたいとは一切思わないけど正直苗字は変えることができるのなら変えてみたい。

 僕が一番カッコいいと思う苗字が「桐生」なんですよね。字面的に見ても比較的シンプルなのにカッコいいし、「きりゅう」っていう響きもイカすじゃないですか。これを超える苗字は俺の中には存在しない。でもあんまり見ないよね。新潟県に結構多いらしいんだけど、21年生きてきて一回も見たことない。是非実際にお目にかかりたいものだ。オンクラの人で言ったら南雲とか榮代とかカッコいいと思う。あとカッコいいとは違うかもだけど青木って苗字も結構好きだなぁ。

 もし子供出来て名前つけるとしたら男の子には「広」って字を付けたい。広い世界、広い視野、広い器とか色々な意味あると思うから。女の子だったら「玲」って字よくないですか?なんか美しくて気品のある感じすると思うし。あと「レイ」って読む子ってなんか俺の中で可愛いイメージあるんですよね。清宮レイしかり綾波レイしかり。それにもあやかりたい。逆に「美」って字は付けたくないかなぁ。ハードル上げる感が否めないし。この字を娘に授ける親はやっぱりそれなりの勇気とか、覚悟とかを持って名付けるのかなぁ。どうなんだろう。親の心子知らずとはよく言ったもんですね。

 親の親なりの強い意図を持って授けられる名前と、誰が決めたかイマイチわからないのに根が絶えるまで代々受け継がれる苗字。神秘的なような、全然そんなことないような。ちょっとだけ空いた時間とか眠れない時とかにこのことについて思慮してみれば暇も潰れるかもしれないですね。

僕はこんなこと思いついてブログ書いてたら余計に眠気が消え失せました。死ね。

適度にゴーイングマイウェイ

 お久しぶりですね。もうブログの存在忘れてたやろ?かく言う俺も意識の枠から外れかけとったわ。

 前のブログ更新してから約90日が経つみたいです。と言っても書くことがなかったり思いついても最後まで書けなかったりしたってだけで、別にこのブログを黒歴史扱いしてるわけではないのです。書きたくなったら書くし、書けない時は書かない。それでいいんだ多分。

 さて今回は高校時代の友達で、当時も今も面白いと思える数少ない旧友の話をしたいと思う。そいつはM上君と言って、高2から2年間同じクラスだったのだが、こいつの何が面白いかっていうと自分の本能に忠実であるというところである。

 俺らの学年にはとても怖くて理不尽な英文法のY先生という教師がいたんだけど、M上はこの教師の出す課題を平気でやらなかったり、忘れたりする。ここまではまぁありがちな話だけど、M上の面白いところはちゃんとその教師に対して恐怖心を持っているところである。平気で課題を忘れたり予習を怠ってきては、開き直るでもなく反抗するでもなく普通にオロオロしながら教師の怒号を浴びる。ここが反抗期のヤツとか、こんな怖い先生に反抗するオレカッコいいと思ってるイキリ野郎とは違うところなのである。一回M上に「お前なんでYのこと怖がってるのに課題そんなポンポンやらないでくるの?普通に怒られるのイヤじゃね?」って聞いたら「いや〜怒られるのはイヤなんだけどそれ以上に課題めんどくさいんだよね。横浜DeNAの試合見てたら眠くなったから風呂入って寝た。さっきのYマジで怖かったわ…」って真顔で言ってのけた。その時コイツはとにかくストレスになることは避けて本能のままに生きてるんやなぁと思ってその自由奔放さとある意味の図太さを羨ましく感じた。

とにかくコイツは自由気ままなんだ。

受験期図書館でみんなピリピリして勉強してる中で俺に「なぁ平澤今日夜ラーメン食いに行かね?」なんて普通の声の大きさ(ちなみにM上は常人より普段の声がちょっと大きめ)で話しかけてきたり、冬休み中クラスの仲間は8時とか9時くらいに弁当持ってきて夜まで勉強してるのにM上は11時ごろ来て実質15分くらいしか勉強してないのに「腹減ったから帰るわ」って言って12時ごろ1人で帰ったりするとか、お前は我慢って言葉を知らんのかってくらい思うような生き方をする。でもこれらの行為は人に迷惑をかけようとか、またはなんか面白いことしてやろうとかいう気概が一切ないのだ。そこが嫌味なくてなんか微笑ましいし、面白い。コイツは自然体そのものが面白いのだ。

こういう風な生き方をするのはなかなか難しいし、これから先ずっとそのまま生きていけるかはわかんない。でも俺はM上の生き方が面白いと思うし、俺も出来ればそういう風に生きてみたい。人生を歩む上で自分の思うように生きられるというのはこの上なく理想的だと思うから。人に大きな迷惑かけない程度に自由気ままで生きたいな。

 

M上は一浪の末東京の大学に進学した。そいつがインスタに投稿するものと言えば、DeNA戦の観戦か草野球かラーメンの話題ばっか。投稿の頻度もまばらである。たまに会う時も、口調や比較的大きめな声も変わらない。東京行ったのに全然いい意味で変わってなくて安心する。東京に行った自分が偉いと勘違いした奴とは大違いだ。さすがM上。そのままでいて欲しいなぁ。図書館とかでは声のボリューム落として欲しいけど…。普通にお前の声図書館中に響くねん。声割とデカいから。